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年賀 平成29年
author:ZAto, category:時事, 21:33
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年賀 平成28年

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author:ZAto, category:時事, 01:58
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年賀 平成27年
author:ZAto, category:時事, 11:24
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年賀 平成26年
2014年賀
author:ZAto, category:時事, 09:45
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叔母のこと

 年末に脳血栓で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれた叔母について。

 両親とも大家族なので、私には大勢の叔母、叔父が大勢いる。
大勢いると近い人と遠い人、顔も知らない叔父、叔母もいるのだが、
先日、脳血栓で病院に運ばれた叔母には幼い頃からずっと付き合ってもらっている。
幼い頃どころか、大雪の日の難産のとき姉である母親に付き添ってくれたのが、当時高校生の叔母だった。

 つまり自分が産まれたときに立ち会ってくれた人。
叔母ではあるが今でも「まっちゃん」と呼んでいる。ずっと姉のような存在だった。
そのまっちゃんは十人兄妹のうちで唯一、恋愛結婚をした人だ。
婚約中の伯父とのデートに子供だった自分はよくお邪魔虫をした。
田舎者ばかりの中で都会的な雰囲気のまっちゃんことは好きだったし、
まっちゃんも随分と可愛がってくれた。
結婚式のときもよく憶えているが、父親が長期不在なのが最適だったのだろう、従弟を産むときに我が家に滞在たことがあり、勉強も見てもらったことを思い出す。
一番ありがたかったのは、自分が高校のときフラフラしているのを、出産のとき苦しんだ母親のことを手紙にして、たしなめてくれたことなのだけど。

 しかし勤め人だった伯父が身体を壊して職を失うと、一念発起して墨田の玉ノ井で焼鳥屋を開業。
玉ノ井は昔遊郭が軒を並べた「ぬけられます」の赤線地帯。
都会的センスに溢れたまっちゃんがいきなり下町向島の焼き鳥屋の女将となった。
たまにそのことをぼやいていたが、夫婦は懸命に激務をこなしていたと思う。
その甲斐もあって常連客もついて、店は繁盛して増築もした。
早くも開業して35年を超えた。従弟も立派に二代目として厨房に立っている。
身内の贔屓目としても、この店のつくねは大変美味い。
軟骨からレバーまで肉の旨味をギュッと凝縮して、ここのつくねを味わってしまうと、ちょっと他のは食べられないんじゃないだろうか。

 残念なことに伯父もまっちゃんも身体が丈夫とはいえず、
二人して交互に病院に担ぎ込まれることもしばしばで、危篤の報せを受けたこともあった。
血管病は母方の家系病で、母親も十年前に大きな手術をして人工動脈が埋められているが、まっちゃんが病院に運ばれるのは今回で三回目だ。

 今夜、BSの人気番組「吉田類の酒場放浪記」でまっちゃんの店が紹介された。
画面の中で手製のぬたを「ワカメとネギと鮟肝で和えて・・・」と吉田類に差し出すと、
「味が練れている。練れているということは味が洗練されている。こういうのが下町の奥の深いところ」との評価を貰って、何とも嬉しそうだった。
これ、いつの収録だったのだろう。
まっちゃんも伯父も従弟もオンエアを楽しみにしていたことだろう。
画面のまっちゃんと病床のまっちゃんとがオーバーラップして、
一層、急の病魔が本当に恨めしくてならない。

 見舞いに行ったとき、伯父がスプーンで流動食をまっちゃんの口に運んでいた。
夫婦水入らずの機会もそうはなかったろうから、何十年ぶりかのお邪魔虫だ。
まだ70前なのだからこれから辛いリハビリにも耐えてくれることだろう。

 身内のことながら「頑張ろう!」の一言を。

author:ZAto, category:戯言, 23:59
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さて、このブログどうしましょう?
 友人たちがやっているブログが、軒並み更新の頻度が減ってきている。
それは仕方がない。更新が滞ってしまう事情はおおよその察しはつく。
始めた頃は話題も豊富で楽しい。それが閲覧者が増えると次第に義務化する。
新鮮味がなくなると宿題が溜まってしまう。
ブログに書きたくて始めたことが、実はブログに書かされてしまう。
もしかしたら、ブログにアップするのが目的で何かしらの行動をとる場合もあるかもしれないが(そのこと自体は否定しない)、そこまでのやる気も時間もない。
まぁ大体そんなところだろう。山守のおやっさん、、、ワシもおんなじじゃ。

 改めて我がブログをスクロールしてみると、殆ど映画と野球のことしか書いていない。
もともと広く閲覧される努力をまったく放棄した勝手気ままなブログだとしても、
そもそもHP雑途往還に映画も野球のページがあるのだから、
果たしてこのブログって必要だろうか。
自分の場合、自由に使える時間が人よりも圧倒的に多いはずだとしても、
書き始めてからアップするまで(文字量が増える悪癖もあって)人の何倍もの時間がかかってしまうとなると、アップ予定の映画評も溜まり、消化するまで観賞を自粛してしまう。
何だかもの凄い本末転倒だ。
野球の試合評(一応ね)も、今日の勝利を称賛するつもりが、翌日にボロ負けされると途端にキーを叩くのが億劫になる。
結局、消化出来ずにシーズン終盤に失速し、金本知憲引退というトピックスも手がつけられず放置したまま年を越してしまう。
そもそも書くことより画像を作ることにエネルギーを使ってしまうのが良くない。
仙台、北海道と旅したことも結局は賞味期限を切らしてしまった。
(旅について書かないブログってなかなか凄くないか)
さらに、日常のあれやこれやを綴ることも日めくりで充足されているとなると、
自分にとってブログの存在意味は殆どないのだ。
それでもブログは書く方からすると楽は楽だし、スマホから閲覧、編集もできる簡便性も捨てがたい。
いっそ「日めくり」をブログに移管してしまうかと何度考えたことか。
 
 まず今後はこのブログに通常の映画評と野球観戦記は書かない。
何かトピックスがあればそれだけを書く。
映画についてはHPに映画観賞記録を新設した。
野球についてもこれから考える。
従ってブログの方は一層、更新頻度が減るだろうが、
アップしたらHPの更新履歴で必ずお知らせするので、
「日めくり」に行ったついでにクリックしてしていただければ無駄足を踏まずに済むはずです。

 って、私は閲覧して戴ける方々に何を指示しているのでしょうか?


author:ZAto, category:戯言, 11:19
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年賀 平成25年

         2013年賀
author:ZAto, category:時事, 00:00
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映画 『 007/スカイフォール 』

 自分としては『ダイ・アナザー・デイ』以来の007シリーズとなる。
あの時も随分と久々だったが、さらに十年が経っているのだから驚きだ。
この機会に少々007シリーズの思い出話に触れてみたい。
初めて劇場で見たのが中学3年のときの正月映画『黄金銃を持つ男』だった。
その時は遅れてきたボンドファンのつもりでいたが、何てことはない、あれも今やシリーズ前半の作品になっている。
シリーズを世代別に分類すると、私はロジャー・ムーア世代ということになる。
しかし、その当時から「ジェームズ・ボンドはやっぱりショーン・コネリーだ!」という声が圧倒的だった。
そこで「コネリーこそボンド」と堂々といえる資格を得ようと、TVで見ていたのでは駄目だという規律を勝手に科して、名画座やリバイバルを駆けずり回りコネリー版の初期作品は早々にすべて劇場で観た。
おかげで以来のボンド映画の見方が、コネリーだったらどんな感じに演じ、どんな仕上がりになるだろうかと想像する偏狭な癖が身に着いてしまった。
しかし、何だかんだいってシリーズもロジャー・ムーア以降、ティモシー・ダルトン、ピアース・ブロスナンを経て、現在のダニエル・クレイグになって、新生ボンドもこれで3作目になる。
もはや「コネリーこそボンド」なんて言い草はオヤジの証明でしかなく、当然、イアン・フレミングの原作もとっくの昔にネタ切れとなって、往年の宿敵スペクターとの対決のバックボーンだった東西冷戦も終息。
母国イギリスもリトル・ハリウッド化して『007は殺しの番号』などというベタな邦題がつけられた時代から50年が過ぎて、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』などと英語音痴を嘲笑うかのように原題がそのまま使われるようになっていた。
そもそも“ゼロゼロセブン”ではなく“ダブルオーセブン”という呼び名が定着した時点でひと世代変わったのかも知れない(嗚呼、淀川長治さんの“ゼロゼロなな”というトークが妙に懐かしい)。
そして『ダイ・アナザー・デイ』を観たときに思った。
オールドファンにはもうレンタルで十分かも知れない、と。
そこにはイギリス野郎のユーモアとダンディズムの欠片もなく、完全にノー天気ハリウッド・エンタティメントが堂々と罷り通っていた。
冒頭、嵐の大海原をサーフィンしながら朝鮮半島に乗り込むボンドの姿は、『オースティン・パワーズ』以上におバカに見え、むしろあっちの方が初期シリーズのテイストを踏まえて微笑ましいぐらいだと感じた。
(消えるボンドカーなど、オースティンでもやらん!)
かつての007には荒唐無稽の中に “情勢”があり、“政治”があった。
あの時、シリーズからショーン・コネリーの面影を追う必要がなくなったのを痛感したのだった。


s_007.gif

 そしてダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドが誕生する。
ファッション誌の表紙モデルになりそうなブロスナンからガラリと趣が変わった。
残念ながらクレイグの前2本は観ていない。
それほど『ダイ・アナザー・デイ』の印象が良くなかったのだが、スチル写真で見る限り無味無臭のロジャー・ムーアやブロスナンのボンドと比べて、クレイグのひと癖ありそうな風貌にはある種の期待感はあったし、そこに製作者側の新生007へのアプローチも感じていた。
これは期待できるかもしれない。実は前2作を見逃したのを後悔もしていた。
そして何よりも『スカイフォール』の監督はサム・メンデスだ。
オスカー受賞監督を起用することの意味に興味をそそられたのも、劇場へ足を運ぶ十分な理由になった。

 全世界に散らばっている諜報員たちのリストが奪われるという極めて危険な事態が発生。ボンドはリストを取り返すべく追跡する過程で、味方の誤射により橋から落下し姿を消した。さらにはイギリス情報部本部が何者かによってハッキングされ、爆破される事件が発生する!

 確かにクレイグの007はブロスナンとはまったく違うシリーズかと思った。
まずテーマ曲に乗ってボンドがピストルを撃つ有名なオープニングが出てこない。
それより以前にコロンビア映画の自由の女神のトレードマークにも軽く驚いていた。
007といえば我々の世代ではユナイトのイメージが強かったのだが、いつからソニーの映画になったのだろう(そういえば劇中に出てくるノートパソコンもソニーのVAIOだったが)。
メインクレジット前のトルコでの車、オートバイ、列車を駆使した大チェイスはCG満載のド派手なもので、それ自体は時代の流れで仕方がないにしても、誤射されたボンドが海底に沈んでいくイメージから、九死に一生を得て、自暴自棄になって女や酒に溺れ、場末の賭博場でやさぐれる姿に、面喰ってしまったのも正直なところ。
ここまでテイストを変えてしまったことには驚かされっぱなしだった。

 シリーズ50年。東西の冷戦が終結し世界情勢がすっかり変質した中での007。
これは否応なしにイギリス情報部の存在理由の矛盾も問われることになり、それがこの物語の根幹にもなっている。
かつてアイディア満載の新兵器をボンドに提供していた「Q」も世代交代し、ITに長け、諜報部員には無線機だけを渡して、あとの行動はすべてこちらがコントロールするという合理性を追求する若造になっていた。
イギリス情報部という組織にも、忠誠を誓った国家にも疎外されようとするボンドは、
アイデンティの揺らぎに苦しみながら、生まれ故郷のスコットランドの生家で敵を迎え撃つことになる。
まさかシリーズでボンドの「自分探しの旅」を仮想体験させられるとは思わなかった。
もはや超人的なスパイがスマートに世界を駆け巡る王道に胡坐をかいてる時代ではなくなっているということだろうか。

 このように『スカイフォール』は既成の007とはまったく構成を異としているのだが、
このことの是非を問われれば、私は「是」だったと答えたい。
シリーズの存在証明はワルサーPPKとアストンマーチンで満たされれば結構で、
007が抱える矛盾を堂々とテーマに持っていた勇気は評価されるべきではないか。
イギリス野郎のユーモアは、ボンドガールを落とし込む軽妙なセリフなどではなく、
このIT犯罪全盛の時代に、あえてショットガンひとつで敵を待ち受ける 『真昼の決闘』 ばりのシチュエーションを現出させたことにあるような気がする。

 そして、エンディングでようやく有名なボンドがピストルを撃つイメージが流れる。
何だかんだと書いてきたが、これには少し「ほっ」とした。



2012.12.2 TOHOシネマズ海老名




author:ZAto, category:映画, 00:16
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映画 『 北のカナリアたち 』

北のカナリアたち 〔東映創立60周年記念作品〕
と銘打たれていた。
思い出すのは30周年記念作品が 『やくざ戦争・日本の首領<ドン>』 だった。あの時 “東映、男の30年” のキャッチが踊っていたことを思うと、吉永小百合主演の60周年には隔世の感がある。
いや、実際に隔世と呼んでも可笑しくない歳月ではある。
それを思うと第一線で看板女優であり続けている吉永小百合は、隔世を超えた存在だといえるのだろう。

 ところが以前、東映作品のビデオの販売会社に在籍していた経験では、とにかく吉永小百合のビデオは当たらないというのが定説になっていた。
実際、劇場の成績はそこそこでも、ビデオソフトは見事にコケまくり、大ヒットメーカーの深作欣ニでさえ 『華の乱』 のセールスは不調に終り、ビデオショップでの稼動も芳しいものにはならなかった。
要するに吉永小百合で劇場に来る固定客の年齢層が、ビデオショップ利用の客層とかけ離れていたこともあったが、仕事帰りにビデオを借りて、寝床に着く前に気軽に観るのに「吉永小百合はちょっと」と敬遠されていたのだと想像する。
吉永小百合なのだから悪い映画はないのだろうけど、良くも悪くも破綻がない。
それは岡田裕介がプロデューサーに就任して以来、定期的に製作されてきた東映の吉永小百合映画全般においての評価なのだと思う。

 さて、もうひとつ悲しいお報せとして、『北のカナリアたち』 のチケットが金券屋で450円という廉価で売られていたこと。
まぁ自分も購入しておいてなんだが、〔東映創立60周年記念作品〕が封切りで450円というのは「なんだかなぁ」ではある。
 鑑賞券も、二次流通に出回るときは需要と供給のバランスで価格は決まってくるので、
節操なく前売りを発行しまくると供給過多を招き、市場でダンピングが発生するのは市場の原理で、おそらく金券屋にタダ同然で大量に持ち込まれたのだろう。
かつてのブロックブッキングで無敵の王座を保持し続けた東映も、シネコンの興隆ですっかり東宝に水を開けられて久しいが、東映映画を東宝系のシネコンで観ているのだから、さもありなんということか。

 日本最北の島・礼文島と利尻島で小学校教師をしていた川島はる。
彼女は20年前にある事件で夫を失ったのをきっかけに追われるように島を出た。
しかし教え子のひとりを事件の重要参考人として追う刑事の訪問がきっかけとなり、はるはかつての生徒たちに会う旅へ出る。
再会を果たした恩師を前に生徒たちはそれぞれの思いを口にし、現在と過去が交錯しながら事件の謎が明らかになっていく。

 形式としてはデュヴィヴィエの名作 『舞踏会の手帳』 を彷彿とさせる。
意外といっては坂本順治にも吉永小百合にも失礼だが、結構面白かった。
もちろんまったく破綻が無かったわけではないが、吉永小百合という旗艦があって、その破綻を見せない大女優が狂言回に徹したことが良かったのだと思う。
確かに不治の病を抱える夫との葛藤や、警察官との不倫など、彼女にもドラマは用意されているのだが、離島の小学校教諭という役柄で、子役や若手俳優たち相手の受けの芝居になったことで、ドラマに安定感をもたらすことに成功していたのではないか。
吃音の少年の叫びにオルガンを合わせて「カリンカ」を歌わせる場面はこの映画の白眉。
歌を覚えたことで小さな分校の生徒たちがまとまっていく過程は、実はこの映画の後に、『サウンド・オブ・ミュージック』を観て、コーラスの素晴らしさが符合して何とも楽しい思いをした。

 しかし20年の歳月は子供たちを変えていく。
小さなカナリアたちは成長とともに、現実の中で歌を忘れてしまう。
失業する者、不倫をなじられる者、ずっと殻に閉じこもり生きる者、罪を犯して逃亡中の者と、それを追う警察官になった者・・・。
歌詞のようにカナリアは山へ捨てられていたということか。
それが紆余曲折の末、彼らが再び歌を取り戻していくエンディングへの流れは森山未来の熱演も光り、非常に良かったのではないか。
森山未来のキレのあるダンスや歌はYouTubeで観たが、底知れぬ才能を日本の演劇界は得たのではないか。

 湊かなえの原作『往復書簡』は読んでいない。
聞くところによると手紙のやり取りだけで構成した短編だというので、先に映像で観てしまったらまず原作に手を出さない私も、ちょっと読んでもいいかなと思いはじめている。
そういう原作をきちんとした映画に仕立てたのだから、那須真知子も会心の仕事だったのではないか。
坂本順治の演出も20年の過去と現在を流れるような編集の妙味で2時間を飽きさせない。
思えば坂本順治も衝撃的なデビュー作 『どついたるねん』 から23年。
初期の “大阪新世界三部作” の頃から円熟した演出力は持っていたが、とうとう佐藤純弥や降旗康男が登板しそうな大作を任されるようになったかとの感慨もあった。

 残念だったのはデジタル撮影では冬の離島の寒さがまるで伝わってこなかったこと。
白波が岩に砕けて海猫が舞うショットなど、木村大作らしい絵を撮っているのだが、そもそも劇映画のカメラマンの仕事はいかに情動を表現することであって、NHKの紀行番組のように風景を額縁にはめることではない。
遠くの地平線や水平線の淵が電気的に思えてしまったのは私だけだろうか。
フィルムで味わうべき映画だったと思う。



2012.12.25 TOHOシネマズ海老名




author:ZAto, category:映画, 00:20
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映画 『 人生の特等席 』
 
 長年メジャーリーグのスカウトマンとして辣腕を振るってきたガスは頑固一徹の男。
しかし年齢のせいか視力が衰えはじめ、球団本部から契約の打ち切りを打診されていた。
一方、家庭を顧みない父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキーは、弁護士としてのキャリアが試されている中、父親の最後になるかもしれないスカウトの旅に同行することを決意する。

人生の特等席

 監督としてクレジットされていないイーストウッドを観るのは何年ぶりだろう。
アルパソプロの製作であり、プロデューサーも兼任しているので、完全にアクターとして素材に徹したわけでもないだろうが、少なくともイーストウッドが演技者としてガス・ロベルの役を楽しんでいることは画面から伝わって来る。
長年のファンとしてはもうそれだけで満足だ。
確かにイーストウッドの監督作品みたいな人物の深みも、映像の奥行きもやや薄いのかもしれないし、締めくくり方もかなりご都合主義的なところもあったと思う。
妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父に確執を抱いていたわりには、ガスとミッキーの親子関係がよほど親密でなければ成り立たない場面もある。
♪You're my sunshine〜の歌も然り、ミッキーの野球眼と実際の野球実技もそうだ。
6歳の時のある出来事がきっかけに父娘はほとんど没交渉だったのだとすれば、やや矛盾があるように思えるのだがどうなのだろう。

 でも、いい映画だった。
アメリカは父性の国だといわれているが、頑固者を描くとき野球は絶好のアイテムだ。
マネー・ベースボール理論が脚光を浴びる現代であっても、アメリカ人にとって打球音が轟く野球のグランドには郷愁があり、父子の絆を確かめる聖域なのだろう。
シネコンの完全入替え制という無粋なシステムさえなければ、もう一度観てもよかったし、何となくグラブの革の匂いを嗅ぎながら、誰かとキャッチボールをしたくもなった。
この感覚は 『フィールド・オブ・ドリームス』 を観終わったときに似ていたようにも思う。
もちろん 『人生の特等席』 は、はっきりと「野球映画」ではない。
しかし、父と子が絆を取り戻すという語りつくされたテーマの中で、野球へのオーマージュが随所に込められていたのが、個人的には嬉しかった。
おそらく主演イーストウッドであて書きしたような脚本なのだろうが、かといってイーストウッドのワンマン映画にもなっていないのは、知的で負けず嫌いだが、決して大人の女として完璧じゃないミッキーを演じたエイミー・アダムスによるところが大きかった。
今後、作品に恵まれさえすればメリル・ストリープの域にまで成長するのではないだろうか。

 今世紀に入ってからそれほど経ったわけではないが、
私は四年前の 『グラン・トリノ』 は今のところ21世紀最高傑作だと思っている。
そしてあれはクリント・イーストウッドの監督・主演でないと成立しなかったという点で、驚くべき傑作だった。
強靭な頑固一徹親父(爺)の幕引きが俳優としてのイーストウッドの幕引きとオーバーラップしてかなり感傷的な思いで 『グラン・トリノ』 のフィナーレを観たものだったが、
そのイーストウッドが人に演出を委ねる形でスクリーンに還って来たのはかなり意外だった。
CSで放映されていた『ローハイド』のクレジットにテッド・ポストの名を見つけたとき、イーストウッドの義理固さに感心してしまったように、『人生の特等席』 で監督デビューとなったロバート・ロレンツが長年、アルパソプロのプロデューサーをやっていたというから、愛弟子の門出に体を張ったのだとしたら、それはイーストウッドらしいと思った。
そう 『グラン・トリノ』 で自らの履歴を総決算したイーストウッドにとって、同じ頑固爺を演じても、それは決してウォルト・コワルスキーの世界観と同じ脈絡になることはない。
あくまでもガスという老人のキャラクターを演じたのであって、そこに自身を投影したわけではなく、だからこそ眉間にシワを寄せて偏屈なガスを演じていてもイーストウッドは随分と楽しげだった。
そう思わなければミッキーに会心の一撃を浴びて、ダイヤモンドを一周する娘に笑いかけた、あのチャーミングな笑顔の説明がつかないではないか。



2012.11.23 TOHOシネマズ海老名


author:ZAto, category:映画, 23:59
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