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『 中島みゆき 縁会 2012〜3 』 〜東京国際フォーラム
 
 5、000席を上回る大ホールの二階席の後ろから3列目というステージを見下ろす席で、新調したばかりで慣れない遠近両用眼鏡の焦点を合わせるのに無駄な苦労をしたこと、舞台セットがブロック状に高く積まれたボックスでのバンド演奏のため、サウンドがやけに近くに感じられ、アップテンポの曲は中島さんの歌とバンドが喧嘩しているようで多少耳障りだったことは最初に書いておこうかと思う。
『最後の女神』 『地上の星』 『恩知らず』 『パラダイスカフェ』はとくに残念だった。
そのためかスローな曲ばかりがやけに心に残ったコンサートになった。

中島みゆき 縁会2012
 
 さて、晩秋恒例となっている中島さんのライブ。
「 「夜会」という舞台がありますが、あれと違って通常のコンサートの方はいつも宴会気分でやっていこうと思っとります。いっそツアータイトルも 「宴会」 にしまえと考えたんですが、一升瓶を持ってこられても困りますんで 縁が会うと書いて 「縁会」 としてみました」 と、例によってあの凄まじく脱力したトークを炸裂させる。

 五年連続となる。もはや時間の流れる早さを茫然と見送るのみだ。
誰かが言っていた。「時間が早く感じられるのは、あなたが遅くなったからだ」と。
確かにそういうこともあるのかもしれない。
例えば前回のコンサートよりも東京国際フォーラムの喫煙所がずっと縮小されて、満員電車状態になっていたことや、終了後のロビーに貼り出されたセットリストに群がっていた携帯電話がスマホになっていたなんて違いにも小さな時の変遷を感じる。
しかし五年なんてケチな話ではなく、今夜のセットリストの内、彼女が二十歳そこそこで作った 『時代』 を歌い、還暦を迎えて発売した 『恩知らず』 を歌う。
休憩後のお色直しでは黒のドレスでJAZZYにブルース3曲を披露するが、『真っ直ぐな線』 と 『悲しいことはいつもある』 という二十歳代の楽曲の間にニューアルバムから 『常夜灯』 を挟む。
40年ほどの時間を一夜のコンサートでパッケージされてもまったく違和感はない。
中島みゆきの世界観が二十歳代で既に完成され、成熟していたともいえるし、
『時代』 『化粧』 『世情』 という楽曲がすでに不変の価値を持っているのかもしれない。
しかし『世情』 などは「めぐるめぐるよ時代はめぐる」で、そういう社会情勢になってしまったともいえるわけで、それを聴いている自分自身に流れた時間も含めて、改めて40年という時の流れを考えてしまった。

 『世情』 が今回歌われるのはネットの書き込みで知っていた。
スポーツ紙にも “中島みゆき27年ぶり「世情」!2年ぶり全国ツアーで披露”と載った。
中島さん26歳のアルバム 『愛していると云ってくれ』 に収録されていた曲。
これが一曲丸々 『3年B組金八先生』 に使われて有名になったことは知っていたが、
実は十年くらい前にビデオで初めて観た(何せ金曜夜8時といえばプロレスだった)。
なるほど、公にはもうシュプレヒコールが失われていた時代に、それでも個の中にその衝動はあるのではないかという「声なき声」を代弁した(と勝手に思っている)『世情』 も、こういう使い方があるものだと感心してしまった。
「この曲を書いて歌っていた頃と比べて本当に世の中変わりました。でも変わらないものは何も変わっていないんだと思います」と語りから入った 『世情』。
今回のコンサートにメッセージ性を見出すのならこの瞬間だったのではないか。
確かに、かつての「公」から「個」へと向けられていた曲が、再び「公」へと回帰することになった今の世情は、作られた当時よりも圧倒的に暗くなっている。
しかし 『世情』 で歌われた主人公みたいに、誰もが闇雲に突き進めるわけではない。
休憩前に歌われた 『風の笛』は、我慢し続けている人々への応援歌になっている。
この曲に、まるで初めて 『ファイト!』 を聴いたときのような共感を覚えてしまった。
『風の笛』 はニューアルバムに収録されている曲だが、またひとつ中島さんから名曲が生まれたことを実感する。
中島さんは応援歌という評価に違和感があるというが、激愛から慈愛へと深めていく中島みゆき史の中で、それらの曲に私自身も共感し、癒されているのだ。
同じ脈絡に 『倒木の敗者復活戦』 という新曲もあり、このニューアルバムは結構いい。
何度も聴いて馴染みのある曲をライヴで聴けるのは楽しいが、こうしてまだ耳馴染んでいない曲をライヴで認知していく作業もまた格別ではないか。



2012.11.15 東京国際フォーラム ホールA



author:ZAto, category:舞台・ステージ, 19:17
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映画 『 悪の教典 』
 
 ハスミンというニックネームで呼ばれ、生徒たちから圧倒的な人気と支持を集める高校教師・蓮実聖司。
生徒だけでなく、ほかの教師や保護者も一目を置く模範的な教師だったが、その正体は他人への共感や良心を持っていない反社会性人格障害者だった。
その異常性格が発覚しそうになったとき、蓮見はクラスの生徒全員を抹殺する決意を固め、実行していった・・・!
悪の教典 まずは結論をいう。つまらなかった。
何故つまらなかったのかといえば、あまりにも単調すぎた。
何が単調だったのかといえば、全体的に工夫が足りない。
何の工夫が足りないのかといえば、
同じ展開のリプレイを繰り返し見せられて退屈だった。
以上、おしまい。

 って、こんなレビューではさすがに「映画化は絶対に出来ないつもりで書いた」と語った貴志祐介にも、「蓮実聖司を愛するものとして」と題して文庫本に解説を添えるほど入れ揚げていた三池崇史にも失礼だろうか。
しかし真面目に三池崇史監督 『悪の教典』 についてのレビューを書こうとすると、
「映画と原作はまったく別モノ」という私の持論を曲げなければならない事態になりそうで困る。
ただでさえ、この週末は原作の映画化作品を三本続けて観て、結局、「原作と映画化」の呪縛から逃れられていない。
『のぼうの城』は「あらかじめ映画化を前提とした」原作があり、『黄金を抱いて翔べ』 は「映画化は考えなかった」原作があり、この 『悪の教典』 には先述の通り、作家が「とても映画にはならないだろう」と踏んで書かれた原作がある。

 では「映画と原作はまったく別モノ」なる持論をここで箇条書きにして確認しておきたい。

一、まず大抵の場合において読書に要する時間よりも、映画の上映時間は短い。
ニ、日常の中で割いた時間の大小はかなり評価に影響する。
三、原作を読みながら、既にその人にとって最高の映像が頭の中で作られている。
四、その映像は予算に上限はなく、ありとあらゆるキャスティングが可能となる。
五、長編小説の場合は2時間足らずの枠に収められないので大概は端折られる。
六、原作は読者ひとりひとりの思い入れの中で完結するが、映画は不特定多数を相手に一定の満足度を目指さなければならず、最大公約数的になり勝ちとなる。
七、そもそも映画は小説の挿絵ではない。

 以上は「原作と比べると映画は物足りない」といわれることへの反証でもあるのだが、
不思議な話、あまりにも原作に感じたイメージ通りの映画を作られると、かえってつまらなく思う場合がある。
いや、読者は一度頭の中で映画を作ってしまっているのだから、それをなぞられても退屈に思うのは当然か。
映画は原作の再現フィルムではないのだ。

 しかし 『悪の教典』 はまず忠実な再現フィルムにはならない。
私が読んだ原作はニ段組700ページのぶ厚い新書版だった。
そのボリュームを2時間にまとめ、しかもクライマックスの殺戮シーンに40分もの時間を割くのだから、脚本も手掛けた三池崇史としては、この原作のどこを捨てるかという作業になる。
ありがちな手として複数のキャラクターを一人にまとめてしまうというのがある。
映画で山田孝之が演じた体育教師がなどはそうだろう。
間引くべき人間は間引いてしまって、登場人物をタイトに絞るのは鉄則だ。
さらに必要に応じてエピソードをスパッと切る。
中途半端につまみ食いするくらいなら丸々切ってしまった方がいい。
吹越満の釣井教諭が犯す妻殺しと校長のエピなどがそれに当るのだろうか。

 ・・・って、ちょっと待てよと。
さっきから「映画と原作はまったく別モノ」と書いておきながら、思いっ切りそのことばかり書いているではないか。
思えばあまりの面白さに、あのボリュームを一気読みしたのが二ヶ月前。
「別モノ」と割り切つて、真っ白な状態で映画 『悪の教典』 を観るには、まだまだ原作の記憶が生々しすぎる。
逆に、まったく内容を知らないまま、この映画を観る人の気分が想像出来ない。
本当はそういう気分にならなければいけないのだが、多分それは無理だ。
もしかしたら、映画によって 『悪の教典』 に初めて触れたのだとすれば、「単調でつまらない」 「工夫が足りない」などという感想は出てこなかったのかもしれない。
それでは本末転倒もいいところで、「語るに落ちる」とはまさにこのことだ。

 しかしそれを割り引いても40分の殺戮場面は退屈過ぎるのではないだろうか。
まず散弾銃で殺しまくる蓮実と、殺されるがままの生徒たちの関係がひどく単純だ。
校舎という階層のある密閉した空間が生かされていない。
階段は出てくるがワンフロアにしか見えないので、生徒の視点からサイコパスがすぐそこに迫っているという恐怖が今ひとつ希薄なのだ。
原作では(と、また書いてしまうが)、机をジグザグに築いたバリケード、エレキギターによる感電、階段に油を撒いた罠、AEDによるドンデン返しなど、とかく単調になりそうな場面を蓮実と生徒たちの攻防をバリエーション豊かに引っ張っていたが、映画ではそこまでやる余裕はなかったのかも知れない。
確かに大勢の生徒たちの弾着をつけての一発勝負は並大抵のことではなかっただろうが、アクションやバイオレンスに定評のある三池崇史にしては、随分とつまらない画を撮ったものだと思う。

 ハスミンを演りきった伊藤英明については、サイコパスであっても全編、カッコをよく爽やかでなければならないので、自然演じられる役者は限られてくる。
不気味過ぎても、大芝居になり過ぎても困るとなれば、まぁ適任だったのではないか。
ただ三池崇史の「アンソニー・パーキンスか伊藤英明か」は大袈裟だったと思うが。



2012.11.11 TOHOシネマズ海老名





author:ZAto, category:映画, 23:59
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映画 『 黄金を抱いて翔べ 』

 面白かった。まず間違いなく今年のキネ旬ベストテン入りは確実だろう。
本屋大賞やミステリー大賞など最新のベストセラー小説が次々と映画化され、
書店に行けば「映画化コーナー」の棚にズラリと原作本が並んでいる中で、
22年前の高村薫のデビュー作に挑んだ井筒和幸。
ずっと温めていた企画が、ようやく念願叶っての映画化となったらしい。

黄金を抱いて翔べ

 高村薫の原作は好みゆえ当然読んでいる。しかし数十年前の読書なので、さすがに細かい部分は忘れていたが、常に登場人物たちの心情をとことん掘り下げ、綿密に筆を進めていく高村薫にしては随分とアクションに特化した小説という印象だった。
憶えているのは銀行の地下金庫から金塊を強奪する計画を立てた男たちがいて、
近隣の変電所を爆破した隙にそれを実行するという大雑把なことくらいで、
北朝鮮の元工作員やら左翼の過激派やら、肝心の幸田の生い立ちにまつわるエピソードなどは綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていた。
つまりは映画観賞にはわりとベターな条件が揃っていたわけだ。
そして井筒が目指したのは(或いはこの原作から得ようとしたものは)、ひたすら骨太な男性映画を指向することであり、それは見事に達成されたのではないかと思う。

 とにかく男の体臭がムッとする映画に仕上がった。
言い方を変えれば男騒ぎする映画であり、「男は本当に馬鹿だ」と思わせる映画だ。
そもそも金塊強奪の話となれば、コンピューターの管理システムをハッキングして、
システマティックに計画を実行するのが今の犯罪映画の見せ方になっているのだが、
ダイナマイトで防犯扉を爆破し、金庫をバールでこじ開けるあたり、驚くべきアナクロ二ズムで徹底されている。
そう、犯罪の計画と実行を描くという娯楽映画の王道のような内容なのだから、
爆破の一つやニつやらねぇと娯楽にならんだろうという潔さがこの映画を支えている。
せっかく銀行本店のコンピューターに侵入できるエンジニアが居ながら、彼がやったことといえば、エレベーターの駆動を制御することと、ダイナマイトをセットすることだけというのは笑ってしまうのだが。

 幸田は北川から大阪市の銀行本店地下にある金塊強奪計画を持ちかけられる。
メンバーは他にシステムエンジニアの野田、北朝鮮の工作員モモ、北川の弟・春樹、元エレベーター技師のジイちゃん。
しかし、計画の過程で謎の事件が次々と発生。
そこにはお互い知らない、それぞれの過去が複雑に絡み合っていた・・・。

 そもそもワケありのメンバーたちで固められた金塊強奪計画だ。
計画が実行するまで、本筋の計画以前に様々な妨害が彼らを待ち受けている。
幸田は過去の武器調達などで左翼過激派へのしがらみを引き摺り、
祖国を“脱藩”した北朝鮮の元工作員のモモは、実兄を射殺し、日常的に二重スパイやら、刺客などの脅威に晒されている。
リーダー格である北川と弟の春樹も場当たり的にヤクザと悶着の渦中にあり、それが金塊強奪直前に想定外の悲劇に見舞われることになる。
この映画が徹底的に珍しかったのは、着々と計画を遂行する過程で、実行日まで彼らは生き残ることが出来るのかという矛先にドラマトゥルギーを持っていったことにある。

 「はじめに金塊ありき、我々と共にありき。我々の結束は肉の欲によらず、ただ金塊によって生まれしものなり」と金塊強奪計画をメンバーに宣言したリーダーの北川。
しかし妻子を殺され、弟を貧死の目に遭わされながら、いつしか北川は金塊を手にすることよりも、計画を実行することが目的となってしまったのではないか。
「人間の住んでいない土地で死にたい」と願う幸田のニヒリズム。
幸田が北川と「黄金を抱いて翔ぶ」ロマンを共有していたかといえばどうなのだろう。
モモも自己破壊への衝動で北川たちの仲間に入るが、金塊への執着は見えてこない。
借金返済というシケた目的を持つ野田は別としても、春樹しかり、ジイちゃんしかりで、
メンバーの誰一人として金塊そのものに執着するメンバーがいないという異常。
第一、彼らは金塊強奪のエキスパートでもなんでもない。
それでもこの計画だけは止められないのだというどうしようもなさ。
そもそも「綿密にやるが細かいことまでは決めない」のが方針の金塊強奪計画。
彼らが場所も構わず計画を口にするものだから、会話を聞き齧った大阪のオバちゃんから鋭いツッコミを入れられる体たらくだ。
この大胆だが杜撰な計画はそのまま「この映画は細々とした説明は省いて進んでいきますよ」という井筒の方針に置き換えられるのではないだろうか。
それゆえに、彼らは次々と場当たり的なバイオレンスに遭遇してしまう。
そして、間違いなくその副産物ともいえるバイオレンスの数々が映画に狂ったような活気を与えていた。

 頭を短く刈り込んでクール&ホットに北川を演じた浅野忠信も凄かったが、
満身創痍で鬱屈とした表情を全編で漂わせていた妻夫木聡も凄かった。
『アウトレイジ ビヨンド』での加瀬亮もそうだが、バイオレンスという素材を与えられた男優たちが躍動しているのは今後の日本映画にとって悪い傾向ではない。
その『アウトレイジ ビヨンド』のチンピラ役でいい味を見せた桐谷健太は、ここでは一転してネイティブな大阪弁を駆使してこの映画に最高のアクを与えている。
先ほどの鋭いツッコミを入れたオバちゃんではないが、『黄金を抱いて翔べ』の世界観は大阪が舞台だから成り立っているのは明白だ。
イケメンのチャンミンや溝端淳平を目当てに劇場にやって来た女の子たちが、
男の汗臭さプンプンの映画にどこまで着いてこられるかはまったく定かではないが。



2012.11.10 TOHOシネマズ海老名


author:ZAto, category:映画, 13:10
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映画 『 のぼうの城 』

のぼうの城

 北条征伐を天下統一の仕上げと定めた豊臣秀吉から「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」と命じられた石田三成は、五百人の兵が残った忍城に対し二万超の軍勢を率いて攻める。城主・成田長親は、領民から「のぼう様」と呼ばれ、泰然としている男。智も仁も勇もないが、しかし、誰も及ばぬ「人気」があった。そして城は簡単に落ちるはずだったのだが・・・。

 映画は原作の良いところも悪いところもそのまま反映された。
だから映画の感想が、原作の感想とかぶらないようにしなければならない。
別に原作と比べてどうのこういうつもりはないが、もともと和田竜の小説は城戸賞を受賞した脚本(まだ存在していたのか、この賞・汗)の書き起こしだったので、原作と映画化の関係性からすれば、そのまま反映されるのは当然の結果なのだろう。
和田竜の小説『のぼうの城』は歴史小説として人物の掘り下げも深みも物足りないものだったが、映像を想起させるスケール感があった。
しかしそうなると小説の読者が脳裏に思い浮かべた映像との勝負になる。
これはかなり製作者にとってハードルの高い話だ。
なにせ読者の頭に浮かぶ映像には予算の上限もなく、もの凄い豪華キャストが可能になる。
別に俳優だけではない。昔の担任教師だったり、親戚のおばちゃんだったりするのだから、これはかなり強敵だ。

 監督は犬童一心と樋口真嗣のW演出。犬童一心は自分世代の映画青年にとっては8mmですでに有名人だったが、PFF出身の映像作家として大きな映画に起用されるなど、かなり成功した監督なのだろう。
しかし樋口真嗣の名前は前面に出してほしくなかった。
これで「本作はふんだんに特撮とCGを使ってますよ」とバラしてしまったようなもの。
別にこの時代に古き良きハリウッドばりに映画会社が社運を賭けるような大スペクタクルを望むほどアナクロではないし、今時CGを一切使わない映画の方が珍しくなっているのは知っているにしても、初めからCGありきだと思わせてしまうのは非常に白ける。
『ガメラ』や『日本沈没』なら許せるものが、戦国絵巻でこういうウリはないと思うのだ。
その石田三成の忍城水攻めの特殊撮影の場面は思っていたほどでもなかった。
それほど東日本大震災での津波映像が強烈だったこともあるが、総じて全体的に特撮映像に厚みがなかったように思ったのは私だけだろうか。
ただ私はクリエーターの出来不出来で、映画をどうこう評価するつもりはない。
たとえこれがびっくりするぐらいの迫力満点の映像だったとしても、所詮はCGじゃないかとしか思っていないからだ。
・・・何だか映画がどんどんつまらなく思えてきて困ったものだ。

 原作の成田長親が巨漢のでくの坊と説明されていたこともあって、成田長親に野村萬斎という配役はピンとこなかった。さらに石田三成の上地雄輔も大谷吉継の山田孝之もないと思っていた(あとの配役はまぁこんなものだろうなと)。
ところが野村萬斎ののぼう様は完全にはまった。
少なくとも原作を読みながら頭に描いていた長親像は完全に裏切られた。
こういう裏切りは大歓迎だ。
自ら敵の的となって場外の農民を鼓舞する田楽踊りはこの物語のクライマックスだが、これはもう狂言師・野村萬斎の本領が発揮され、説得力も十分だ。
滑稽芝居はもともとお手のものだが、何よりも口跡が素晴らしく、後半は少々二枚目過ぎた感はあったものの、映画にとって何者にも代えられない存在感で、体躯の違いなど実にくだらぬことだったと納得させられる。
更に三成と吉継を演じた上地雄輔と山田孝之もあまりにも良くてびっくりした。
実はこの『のぼうの城』という物語は長親のワンマンショーではあるが、後味の良さを支えていたのは三成と吉継の存在だ。
彼らをステレオタイプの敵将に描いてしまうと、戦国武将の潔さが台無しとなるどころか、対する坂東武者たちの心意気も半減してしまうところだった。
どちらかといえば一本気な忍城側と比べ、何かと屈折している三成の青さを上地はよく演じたと思うし、その三成を諌めながらも魅かれてゆく吉継の葛藤を抑えた芝居で山田も健闘していたのではないか。

 オープニングの秀吉による備中高松城の水攻めでのあんまりなチープな画面作りを見て、おいおい大丈夫かいなと案じてしまったものの、全体的には満足の行く出来ばえだったのではないだろうか。

 何年前、関が原の合戦場を訪ね、三成と吉継の陣営を見て回ったときに、ともに討ち果てた二人の武将に古えの思いを馳せたものだったが、それよりも以前にこの二人が埼玉県の北部でここまで大規模な合戦を仕掛けていたことは『のぼうの城』を読むまではまったく知らなかったことだ。
石田堤など名残りの史跡がエンディングで紹介される。
以前、仕事で行田市にも何度か足を運んだものだったが、もしかしたら私も忍城ゆかりの佐間口や長野口という交差点を通過していたのかもしれない。



2012.11.9 TOHOシネマズ スカラ座


author:ZAto, category:映画, 01:26
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映画 『 終の信託 』 
 
終の信託 不倫関係にあった同僚医師に裏切られ、自殺未遂を起こしてしまった呼吸器内科の医師・折井綾乃。
重度の喘息患者・江木泰三に心の傷を癒される中で、互いに惹かれ合うものを感じるが、病状が悪化の一途を辿っていた江木は「最期のときは先生に早く楽にしてほしい」と、綾乃に願いを託すのだった。

 ポスターのメインコピーは
-----“ 医療か? 殺人か? ” -----
しかし、果たして周防正行はそんな社会派の映画を撮ったのか。
私にはどうもそれは違うような気がしてならなかった。
そういう事件性よりも、もっと根源的な不条理というか、
「草刈民代の生理の中で世の無常観を描いた映画」
何となくそんな感じを抱きながら、エンドロールを眺めていた。

 もちろん痴漢か冤罪かを描きながら、司法権力の硬直さを追及した前作『それでもボクはやってない』は完全な告発映画で、周防にそういう素養があるのは認める。
しかし過去のフィルモグラフィにおいて、ロック青年に僧侶の修行をさせ、相撲部の滑稽さを描き、サラリーマンが社交ダンスに目覚める映画を撮ったのと同じ脈絡で、あれは痴漢の被疑者となった青年が有罪に処せられるまでを丹念に積み重ねながら、なかなか知り得ない司法システムを興味深く見せたエンターティメントだったと思っている。
そう、告発映画といっても周防正行は熊井啓的な価値観にはならない。
馴染みのない世界を面白おかしく描く作風といえば、伊丹十三という先達者がいる。
周防は『マルサの女』のメイキングビデオをヒットさせた実績から、彼は伊丹の継承者だというのが私の評価だった。

 しかし『終の信託』は今までの周防作品とまるで違う。
まず『Shall we ダンス?』ではお人形さん扱いとしてのみ存在していた草刈民代を徹底的に追い込んで見せる。
セックス場面では乳房を晒し、嘔吐の場面では吐瀉物まで見せ、まぶたが腫上がるほど泣き喚かせる。
草刈は全編ずっと目の下の隈と、加齢から来る顔の弛みを隠そうとしない。
まるでかつて新藤兼人が妻の乙羽信子に設えた試練を彷彿とさせるほど徹底的ぶりで、
折井綾乃という役柄よりも草刈民代の生理を全編に渡って見せられた気分だった。
まず草刈民代は演技が下手。台詞回しも驚くほど拙い。
それでも表現者としての豊富なキャリアで、決して流暢ではない台詞回しが新劇出身の女優では表現できないリアルさを醸し出す。
台詞の掛け合いでは役所広司がリードしている感じだったのが、
次第に草刈の醸すリアルさに役所が受けに回っている風さえ窺える。(それが出来る役所広司も改めて巧いと思った)
また、冷徹な検事を演じて助演男優賞ものだった大沢たかおも、ある意味、草刈のリアルと対峙したことで、あの圧倒感が生まれたのではないかとさえ思う。

 そもそも周防は原作ものを手掛けるのは久々ではないだろうか。
周防は小説のページを開いた瞬間から映画化への道筋を予感したのだという。
どの段階で折井綾乃に草刈民代という発想が閃いたのかどうかはわからないが、
久々に映画監督が主演女優との関係性の中で、監督が女優に負荷を与え続けることによって虚飾を剥ぎ取り、高みへと昇りつめていくような映画を味わうことができた。
綾乃に残されたものは終末医療の倫理観でもなければ、検察当局の不条理などでもなく、
地位も愛も失った徒労感ではなかったか。
江木との約束を果たした安堵感があるのだとすれば、それが彼女にとって唯一の救済となるのだろう。

 周防が敬愛する小津安二郎の映画に『小早川家の秋』という作品がある。
あの映画のラストで小津がこめた無常観に『終の信託』は肉薄していたのではないか。
デビュー作のピンク映画『変態家族・兄貴の嫁さん』で、小津映画へのオマージュを捧げて冒頭から爆笑させてもらったが、とうとうそこまでの映画監督になったのかと思うと感慨深い限りだ。
人それぞれ好みはあろうとも、私は『終の信託』を周防正行の最高傑作だと信じている。



2012.11.6 TOHOシネマズ錦糸町




author:ZAto, category:映画, 23:59
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映画 『 中島みゆき 「歌姫」 劇場版 』

 スクリーンで中島みゆきを観てきた。しかも本日は暮れのコンサートツアーの先行抽選の結果がメールに入る。
当選祈願も兼ねてシネコンの座席に腰掛け、「頼むぞ」とスマホの電源を落とした。

「歌姫」劇場版 ▲▲▲収録曲▲▲▲
◎第1部 プロモーション・ビデオより 
 おだやかな時代
 見返り美人
 黄砂に吹かれて
 空と君のあいだに
 囁く雨
 愛だけを残せ
 一期一会
◎第2部 中島みゆきライブより
 この空を飛べたら
 地上の星
 土用波
 銀の龍の背に乗って
 この世に二人だけ
 夜行
 歌姫

 そして第3部として、新曲「恩知らず」のPVと昨年のコンサートツアー2010からのライブで「時代」。以上16曲。
昔はよくフィルムコンサートやライブ映画などがあったものだが、今はデジタルの時代となって映画館でライブの生中継が観られる時代だ。
そのデジタルの時代に昔のPV(プロモーションビデオ)を何本か重ねて、DVDになっているロスでのスタジオコンサートという構成は一本の“劇場映画”としてはかなり安易に作られているなという印象。
せめて入場料2000円をとるならオリジナル映像のひとつでもつけて欲しかった。
PVもアナログ撮影のためか大きなスクリーンではかなり画質が厳しく、音だけはまぁ良かったのが救いだったか。
おそらく中島みゆきが大して好きではない人が付き合いで観ることになっていたらお気の毒だという代物ではあった。

 その点、自分の場合はファンなので、「見返り美人」の金のかかった映像を久々に堪能できたし、お初にお目にかかった「囁く雨」に新鮮な感動を見つけて、その点では良かったと思う。
画質の点でいえば、やはり第二部のロサンゼルスのスタジオライブからデジタルの本領が発揮される。
このロスのライブもYouTubeなどで簡単に見られてしまうのだが、海外の一流アーチストをバックにやや緊張気味の中島さんの息遣いが感じられてスクリーンの大きさが生きたのではないだろうか。
まだ二十歳代の中島さんがテレビ番組で加藤登紀子と競演した「この空を飛べたら」など、当時は大御所に何とか食らいつこうと一生懸命だった微笑ましい動画が今もYouTubeで見られるが、それを思い浮かべながら聴く「この空をとべたら」はファンとしては一興だった。
つくづくご自身がすっかり大御所の風格を身につけたものだ。
白眉は「銀の龍の背に乗って」だろうか。これも名曲で、この間のコンサートでも披露されたが、歌い出しの「はっ」とする声の艶といい、楽曲への集中力といい、このロスでのライブが一番いい。
もっとも愉快だったのが、昔ながらのみゆき節の真骨頂と思われる「この世に二人だけ」を海外アーチストたちがバックで合わせていく姿だったりもするだが・・・。

 コンサートツアー2010でアンコール前のフィナーレで歌った「時代」。
このライブ映像は本邦初公開ということで、『 中島みゆき「歌姫」劇場版 』の目玉なのだそうだが、確かに東京国際フォーラムのステージを思い出させてくれる。
♪まわる〜まわるよ時代はまわる〜喜び悲しみくり返し
思えば70年代に二十歳そこそこの中島さんが歌った頃には、「時代」はあくまでも模索であり、願望に過ぎないはずだった。
今は「時代」に対する確信があり、ある種の達観がある。
コンサートでは「おお、ここで「時代」が来るか!」との驚きで終わってしまったが、スクリーンで大写しになった中島さんの「時代」を聴きながら、歳月の重みがズシンと胸に迫ってくるようだった。

映画が終わって、道玄坂を渋谷駅に向かいながらスマホの電源を入れる。
「ヨッシャ」。今年も中島みゆきコンサート行きます。



2012.10.19 TOHOシネマズ渋谷


author:ZAto, category:映画, 12:14
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映画 『 アウトレイジ ビヨンド 』

 「北野映画」がブランドに昇華していく過程と、私が映画館から遠のいていく過程が重なってしまい、北野武監督作品を劇場で観た本数はそれほどでもない。
監督デビューの『 その男、凶暴につき 』 『 あの夏、いちばん静かな海。』 『 BROTHER 』 『座頭市 』 くらいか。
しかし 『 座頭市 』 は今一つ感心しなかったが、たかが4本ほどの北野映画体験ではあってもどれも強烈な印象が残っている。
何というか、自分の中で熟成してしまった「娯楽映画の定義」というものが微妙にズラされていく居住まいの悪さとでもいうのか、こうくればああなるだろうという決めつけが嵌ってくれない不快感と驚きみたいなものが常にあった。
簡単にいってしまうと北野映画は先読みが難しいこともあるが、別にストーリー展開の予測が出来ない映画を撮り続けているというよりも、カットからカットへと移行する編集のリズムが既成の映画概念では測れないオリジナリティに満ちているのは強く感じていた。

アウトレイジ

 しかし今回 『 アウトレイジ ビヨンド 』 で十年ぶりに北野映画を観て思ったのは、かなりこちらの予測通りに映画は流れて行きつつ、娯楽映画の常道からそれほど外さないまま、一定の高揚感は獲得していたということだった。
確かに 『 その男、凶暴につき 』 から23年。北野武も立派なベテラン映画監督だ。
変な書き方だが「こういう常道も行けますよ」と、満天下に知らしめるためにこれを撮ったのではないかと気さえする。

 もちろん常道ではあるが、『 アウトレイジ ビヨンド 』 は決してやくざ映画の王道ではない。
このジャンルを浴びるほど観てきた私にとって、このやくざ映画はやはりひと筋縄ではいかないものは感じる。
やくざ映画は鶴さん、健サン、お純さんの任侠ものは当然として、深作欣ニの実録ものであっても徹頭徹尾ウェットな世界だった。それは『 仁義なき戦い 』 然りで、かなりドライな領域に踏み込んだ『仁義の墓場』 であっても、プログラムピクチャーの枠組みの中でのスター映画だった。
変な話、私はやくざ映画で涙ぐむことはあっても、恐いと思ったことは一度もない。
その時点で東映や日活のやくざ映画はバイオレンスを描いていたとしても生の「暴力」を感じさせる映画ではなかった。
『 仁義なき戦い・代理戦争 』で川谷拓三が手首をぶった斬るというショッキングな映像も、痛みよりも「拓ボン、阿呆や」という場内の笑いの中に埋没され、あのムーブメントの「祭り」の余興に過ぎなかったのではないだろうか。
やくざ者に追い詰められていく恐怖感は、やくざ同士が抗争を展開する段階で相殺されてしまう。だからやくざ者が恐ろしいと思わせる映画は、ジャンルの違う映画にやくざが登場するときであって、決してやくざ映画ではなかった。
それは 『 アウトレイジ ビヨンド 』 で西田敏行や中尾彬がいくら凄んだ芝居をしたところで、「おっ、やってんな」と思うだけでリアリティは感じることが出来ないのと同じ脈絡であり、今まで北野映画に感じていた居住まいの悪さや、嵌ってくれない不快感を殆んど感じさせないまま映画は112分を駆け抜けたという感じではある。

 その点で既成の北野映画のファンはある種の物足りなさを感じるのかもしれない。
確かに(ビデオでの鑑賞だが)『3―4×10月』でベンガル扮するやくざが堅気に追い込みをかける場面の得も言われぬ恐怖感を描き切るセンスに感心した人たちには 『 アウトレイジ ビヨンド 』 は普通のやくざ映画なのかもしれない。
しかしやくざ映画のウェットな「祭り」に身を置いていた私には、このカラカラに乾いたドライさはやはり異様な世界観ではあった。
現実問題、今、暴対法でがんじがらめにされている暴力団が衆人環視の中で派手にマシンガンをぶっ放すなどはファンタジーの世界ではあるのだが、例えばバッティングセンターでチンピラが堅気の若者に嫌がらせをする場面などは北野武の独壇場ではなかったか。キャンキャン吼えまくる加瀬亮の不快指数満点の芝居と併せて、それが徹底的にドライに行われることでストレスが蔓延していくリアリティは特筆すべきだろう。

 もう一度言うがこの映画はやくざ映画の常道ではあるが、王道ではない。
まぁ北野映画あるという前提で、それは当たり前のことでもあるのだが、常に過去の北野映画の既成概念が求められのは、北野武にとってもあまり幸せなことではいだろう。その意味ではファンや評論家たちの中で北野映画の王道は作られているのかも知れないが。



2012.10.13 TOHOシネマズららぽーと横浜


author:ZAto, category:映画, 23:59
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映画 『 天地明察 』

 冲方丁の原作を読みながら、これは絶対に映画化されると確信していた。
それくらい面白い時代小説だった。
おそらく「本屋大賞」が発表された段階で映画化権の争奪が始まったと思うが、
そこは角川映画。もともと単行本は角川書店なので、映画化までの流れは早い段階で想定されていたか。
その意味で 『おくりびと』 のように滝田洋二郎側からの持ち込み企画だとは思いにくく、会社依頼を引き受ける形で撮った映画に違いない。
スケールからしても少なからぬバジェットを必要とされるので、映画化には一定のポテンシャルが要求される。
滝田の職業監督としての手腕が問われる映画化だといえるだろう。

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 泰平の世。星を眺めるのが何よりも好きで、算術にもたけていた安井算哲は碁打ちとして徳川家に仕えていたが、会津藩主の保科正之の命を受け、北極出地の旅に出ることになる。算哲らの一行は全国各地をくまなく回り、北極星の高度を測り、その土地の緯度を計測するという作業を続けるうち、公家が司る暦のズレに気づくことになるのだが・・・。
 
 映画化が発表された段階ではそれほど食指は動かなかったが、
夏前頃から始められた劇場予告編を観て、本編を観てもいいかなと思い始めた。
画面から窺えるスケール感と久石譲の音楽が上手にシンクロして、水準以上の出来であることが直感されたからだ。
映画を観終わった後の感想は予告編で感じた水準を上回るものではなかったが、
それを残念に思うほど悪い映画ではなかった。
たまに琴線を刺激される場面もあったが、北極地探索をともに旅する伊藤重忠、建部伝内を演ずる岸部一徳と笹野高史の飄々としたやり取りで笑わせる。
こういう脇の役を光らせることで映画の厚みが何倍にも増すという好例だ。
総じて原作の面白さを丁寧に拾っていった滝田としても、無難に職業監督の役割を全う出来たということだろう。

 惜しむらくは「時間」をテーマにしながら、映画の中の「時間」がストーリー上の「時間」とが噛み合っていなかったことか。
北斗七星が北極星の周りを一巡する時間や、日や月が翳る「蝕」の間隔がかなり拙速な印象をもつ。
これは映画のテーマとかかわってくることなので、その時間軸の同期には配慮してほしかった。
早い話、成長物語なのだから、歳月というものをもっとわかりやすく見せてもよかったのではないか。
実は原作を読み終わって映画化を確信しながら、
一年かけて大河ドラマとして放送しても面白いのではないかと思ったくらいだ。

 安井算哲に岡田準、妻のえんに宮崎あおい。
他にも保科正之に松本幸四郎、水戸光圀に中井貴一、関孝和に市川猿之助、敵役の宮栖川友麿に市川染五郎助など主役級が顔を揃える。
絶好調の岡田は、やや時代劇の主役としてはマスクのバタ臭さが気にならないでもなかったが、それをうまく補ったのが低身長と、宮崎あおいの巧みな受けか。
うん、彼女はいい。同じく本屋大賞受賞の原作 『舟を編む』 でも抜群の内助の功を発揮することだろう。
憎々しいお公家を演じた市川染五郎も特筆すべき。こういうのが梨園の底力なのだろう。



2012.10.13 TOHOシネマズららぽーと横浜



author:ZAto, category:映画, 03:06
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映画 『 濡れた唇 』

 1972年製作。神代辰巳の記念すべき日活ロマンポルノデビュー作だ。
『恋人たちは濡れた』への再見をあえて堪えた私ではあるが、この未見のデビュー作を観られる機会だけは外すことは出来ない。仕事帰りに夜9時15分開始のユーロスペースでのレイトに駆けつけた。
私がロマンポルノを観てきたピークは高校から、浪人、大学時代の前半。当時、名画座を探していても『濡れた唇』の上映はそれほどなかったように記憶している。
何せこのジャンルは当時は一週間3本立てのローテーションでフル回転状態だった。
映画館が新作、準新作の上映だけでプログラムを埋められるだけのポテンシャルは十分に備わっており、確か入場料1200円ほどの日活の封切り館があって、新作落ちをかける二番館があったとすれば、私は更にその下の300円3本立ての三番館以下に通っていたのだから、そのランクの客にあえてプリントが消耗した小難しい神代辰巳の初期作品を観せるという発想はなかったに違いない。
私がその当時から感じていたことは、優れた女性映画を男の観客たちが独占していることの矛盾と、映画雑誌などで絶賛される神代辰巳と、それを上映している小屋の空気感とのギャップだった。

s_kuma.jpg 主演は絵沢萌子。調べてみないとわからないが、唯一無二の主演映画なのではないかと思う。ロマンポルノに関わらず広く一般映画でも活躍し続けた名脇役だといってもいい。
神代辰巳のデビュー作と書いたが、正確には日活がロマンポルノに移行する以前の一般映画で監督デビューを果たしており、『濡れた唇』はあくまでもロマンポルノ第一回監督作品。その一般作デビュー『かぶりつき人生』があまりにも不入りだったため神代は日活の怒りを買って何年間か干されていたのは有名な話で、ロマンポルノ路線に踏み切ったことで、水を得た魚のように躍動したことはどの神代辰巳プロフィールでも紹介されていることではある。
そして日活ロマンポルノは究極のスターシステム路線だったのだから、主演が当時33歳の絵沢萌子であるという時点でこの第一回作品はまったく期待もされない添え物扱いだったことも窺える。

 材木屋で働く金男はコールガールの洋子を見て一目惚れし、洋子のもとに転がり込む。しかし洋子のヒモが現れ、もみ合っているうちに撲殺してしまった。金男は洋子の故郷に逃亡するが、幼なじみの清からすでに警察が来ていると知らされる。清と恋人の久子が加わり、四人での逃避行が始まった・・・。

 絵沢萌子はもともと芝居が上手く、彼女の存在感だけで最後まで引っ張られてしまうのだが、正直、内容はロマンポルノ以前の日活ニューアクションで原田芳雄、藤竜也、梶芽衣子たちが織りなした不良性感度の高い反体制の青春ものから、権力への激しい怒りを抜いた軟弱で牧歌的な仕上がりだったという印象だった。
一応、全共闘の熱気から取り残されたシラケた空気を感じさせる場面など、後の『青春の蹉跌』の萩原健一と桃井かほりの道行を彷彿とさせ、逃避行で辿り着いた田舎の風景で姫田真佐彦のロングショットなど「ほう」とさせるカットも散見される。
しかし全体的な作りの甘さは如何ともしがたく、思わず苦笑してしまうこところもあった。
評判の夜汽車でのセックスシーンも、その後の神代映画で観てきた濃密度からはまったく及ばすといった具合に、神代辰巳を狂信する先輩方には申し訳ないが、中途半端に神代ロマンポルノに被った世代には、神代辰巳が助走している過程の映画という資料的価値しか見出すことは出来なかった。
それでも絵沢萌子が全編で口ずさむ春歌の情感など、その助走ぶりは悪くない。感銘もなく面白くもなかったが、誰が見ても神代辰巳のリズムであることは納得できるのではないか。
何よりもこの映画の次に撮ることになったのは日本映画の金字塔ともいえる『一条ゆかり・濡れた欲情』なのだから。 
 
 
 
2012.9.21 渋谷ユーロスペース
 
 
 
author:ZAto, category:映画, 23:59
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映画 『 四畳半襖の裏張り しのび肌 』

 「男も女もアレしかないんよ、バンザイ」
芹明香がぶっきらぼうに叫んで、映画はぶつ切れのように幕を下ろす。
渋谷・円山町、23時 ------。
映画館の暗闇からいきなり若い奴らの嬌声がかまびすしい道玄坂へと放り出されるのが嫌で、ラブホテル街から裏道を通り抜け、京王線の神泉から道玄坂に戻って渋谷駅のターミナルに辿り着く。
太鼓持ちを目指し猥歌の練習に励む正太郎の「ででんでんでんでん」というリズムがまだ耳に残っていて、それが眩い都会の光に邪魔されずに済んだのが心地よかった。

s_kuma.jpg 1974年製作日活ロマンポルノ『四畳半襖の裏張り/しのび肌』。初めて観る。
何の気なしに渋谷駅で途中下車した段階では、まさかこの映画を観ることになるとは思ってもいなかった。
渋谷のユーロスペースの前で「今夜21時15分レイト上映」の小さな告知をよくぞ見つけたものだと思う。
監督・神代辰巳。この人の映画を最後に映画館で観たのは『恋文』以来ではないだろうか。そうなるとほぼ30年近くの邂逅となる。
いや、ここで神代辰巳を、日活ロマンポルノを懐かしむ方向へ流れ出すとキリがないので止めておくが、要はノンポリのバスケ少年を中途半端にドロップアウトした大人にさせた張本人のひとりだということはここに書き残しておきたい。

 舞台は大正末期から日中戦争が勃発する昭和初期まで。
同じ旦那を持つ染八から赤ん坊を連れ去り、関東大震災のどさくさで自分の子として育てるところから物語は始まる。
「ちょっと旦那さん、あんまりじゃありませんか・・・」と蓮っ葉に拗ねる宮下順子の台詞回しにまずゾクっとさせられる。蚊帳越しの蒲団に包まっての情交は何でもありのAVとは比較にならないスケベを感じるのは、私がおっさんになってしまったからなのか。
とにかくそのものズバリがいとも簡単に閲覧できる時代にあって、ロマンポルノの秘められたエロチシズムのなんと芳醇なことだろう。
なにより画面の随所にこれがメジャーな撮影所で生まれた劇映画である実感に満ちている。
メインタイトルのバックである桟橋のロングショットを名カメラマン・姫田真佐久が目を奪うような構図で捉えれば、昭和初期の置屋のセットや調度品など美術、小道具など、活動屋たちの丁寧な仕事には感動を覚えるぐらいだった。

 さて、正太郎と名づけられた子供は置屋の息子として育っただけに早熟。
他の芸者の布団に潜り込むが、皆「まだ子供だから」と黙認しているうちに、芸者の小ふくお腹が膨らみ、手を焼いて預けた映写技師の奥さんの腹も膨らましてしまう。
小ふくは子供を産み育てるため、花清の旦那である小宮山に水揚げしてもらうことを決意し、花清はまたも心穏やかではなくなる・・・。

 こんな展開で、中島丈博の脚本は全体的に艶笑喜劇という体裁をとっているのだが、神代辰巳は戦火が広がる不穏な時節に男と女の情欲の高まりを通して時代を炙り出していく。
そして田坂具隆監督の『土と兵隊』の戦場で泥まみれで闘う兵隊の映像を背景に、とんでもないスケベを描くという、かなり大胆な領域まで突き進んでいく。
一見するとキワモノとも、崇高な反戦映画とも思えてくるが、戦場を駆け巡ろうがなんだろうが、結局、男と女のスケベで人間は成り立っているのだという神代テーゼがすべてご託を凌駕してしまっている気さえしてくる。
確かに性描写自体は何でもありの今とは比べるべくもないが、おそらくセックスの大らかさを戦争と対比して相対化してしまう手法は現在では許容されないのではないだろうか。
自分の実感からも確実に70年代は今より遥かに自由だった。

 ついでにいってしまえば、私が原田芳雄の遺作となった坂本順治『大鹿村騒動記』を全然評価していないのは、土着の「生」や「祭り」をテーマにしながら、「性」をまったく描けなかった点にある。
 
 
 
2012.9.10 渋谷ユーロスペース


author:ZAto, category:映画, 23:28
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